Schneider
世界の名機
Lockheed T-33


 

ジェットエンジン開発スタート

 ドイツにおいて、ガスタービン(ジェット)エンジンを動力とする実戦用軍用機の開発が進行中であるとの情報を、アメリカ陸軍航空隊が入手したのは1941年初め頃のことと言われている。1941年初めといえばドイツにおいてハインケルHe280が初飛行に向けて着々とその準備を進めていたと同時に、メッサーシュミットMe262の機体が完成間近にあったまさにその時期。この時アメリカ側が入手した情報も、おそらくこれらの機体のどちらかに関するものだったはずである。
 一方、この時点においてアメリカの航空機メーカーの中でジェットエンジンの基礎研究を自主的に行っていたのはロッキードのみに過ぎなかった。もちろん理論としてのジェットエンジンの存在は知られていたものの、具体化となるとは不思議な程に無視されていたのである。ドイツ側の不気味な行動に脅威を感じたアメリカ側は、即座にNACAを通じて数社にジェットエンジンの開発を命じると共にイギリスのパワージェット社からの技術導入も決心することとなった。

問題も多かった米軍のジェット
 その結果、誕生することとなったのがアメリカ初の試作ジェット戦闘機でもあったベルXP-59Aだったのだが、エンジンの致命的な出力不足が災いして全ての飛行性能が既存のレシプロ戦闘機に劣るという失敗作であることが明らかとなる。XP-59Aの初飛行が1942年10月。しかし同じ頃ドイツでは既に実用戦闘機の体裁を整えていたメッサーシュミットMe262が初飛行を終え、量産開始は時間の問題となっていたのである。
 XP-59Aの失敗に危機感を高めたアメリカ陸軍航空隊総司令部は、とりあえずウェスチングハウスに命じていたジェットエンジンの自主開発を諦め、当時入手が可能だったエンジンの中で最強スペックを誇っていたデ・ハビランド・ハルフォードH1.Bの導入を決心。同時に再びベルにこのエンジンを装備する改良型であるXP-59Bの試作を命じる寸前まで行ったのだが、試作機の審査を担当していた一部の技術担当者の間からXP-59は機体設計自体に発展性が乏しいとの指摘がなされたこともあり、新たにロッキードをメインコントラクターに指定することとなった。これは既述の通り自主的にジェットエンジンの基礎研究を行っていたことと無関係では無いはずである。

XP-80の誕生
 この辺りの時系列は戦時ゆえに素早かった。まず陸軍側がロッキードに最初のコンタクトを取ったのが1943年3月。陸軍側がロッキードに対して正式に設計案の提出を要求したのが5月17日。一ヶ月後の6月15日には早くも基礎設計案を取りまとめたロッキードが陸軍航空隊首脳へプレゼンテーションを実施し、そして二日後の6月17日には開発が決定するという動きだった。
 ロッキードの新型ジェット戦闘機は「XP-80」という試作機ナンバーと共に開発に入った。モックアップ審査を試作一号機の機体がほぼ完成したのが10月中頃。しかしイギリスから送られてくるはずのH1.Bエンジンの到着時期はこの時点でも判然としていなかった。遅れに遅れていたエンジンがやっと届いたのが11月3日。XP-80の試作一号機が完成したのは十日後の11月13日だった。
 明けて1944年1月8日。遂にXP-80の初飛行の瞬間がやってきた。「Lulu Belle(ルル・ベル)」と非公式にネーミングされたXP-80は処女飛行とその後の数回に渡って実施された初期の飛行実験の過程で500mph近い最高速度を記録。ほぼ三ヶ月を掛けて各種飛行実験をクリアしたXP-80は最終的に陸軍航空隊首脳を喜ばせ、その結果4月4日にエンジンをアメリカ国産の「J33」に換装した量産型のP-80Aが1000機発注されることとなる。激化する第二次世界大戦下、アメリカは遂に「使える」実用ジェット戦闘機を得たのである。

遂に量産開始
 アメリカ陸軍航空隊が量産型P-80Aの受領を開始したのは1945年2月からのことだった。直ちに実戦に向けた運用試験と部隊編成、さらに機種転換訓練が開始されたものの、結局実戦には間に合わなかった。P-80Aはエンジンその他を見直したP-80B、さらに改良を重ねたP-80Cへと進化、そして1950年に至り最初の実戦の場である朝鮮戦争を迎えることとなる。この間、1947年9月を以て陸軍航空隊が空軍へとその編成を改めた後、1948年には戦闘機を示す記号がPからFへと変更されたことでF-80となった。
 なお「シューティングスター」という公式ニックネームは開発初期にロッキードの開発チームによって名付けられたものが正式なものとなったという説が有力である。

戦闘機から練習機へ
F-80は戦闘機としては運がなかった。第二次世界大戦にはギリギリで間に合わず、しかし最初の量産型の完成から5年が過ぎた朝鮮戦争時には後継機として華々しくデビューしていたノースアメリカンF-86セイバーの前に既に旧式化してしまっていたのであるから。しかしF-80にはアメリカ空軍初の実用ジェット戦闘機として他の用途があった。それはジェット戦闘機への機種転換訓練のための高等練習機へのモディファイである。
 実のところ、既存のレシプロ練習機から一足飛びに最新鋭ジェット機へと進んだことが原因と思われる習熟不足に起因する事故が多発していたこともまた事実であり、このことを重く見た空軍(当時は陸軍航空隊)首脳部もジェット高等練習機の必要性を感じてはいたのだが、主として予算計上の問題で調達にまでは至っていなかったという背景があった。
 ここでロッキードが取った手段はというとP-80C(当時)をベースとした復座練習機(社内開発ナンバーL-580)の自主開発である。1947年5月にスタートした開発計画は極めてシンプルだった。基本はP-80Cの胴体をストレッチし復座化するという手法であるストレッチ量は主翼前方部が26.5インチ、後方部が12インチというもの。ここに射出座席二基と複式操縦装置をセットすることで練習機化したわけである。
 P-80の復座練習機型は1948年3月22日に初飛行を行った。幸運なことにオリジナルの戦闘機体はこうした改造に対して極めて柔軟性に富んでいた。計算上重量バランスや空力特性に対する大きな影響も無く、逆に胴体の延長に伴い機体に作用する抗力がわずかに減ったことで完成機の最高速度も向上したくらいだった。さらに復座化によって機体重量が増したかと思いきや、胴体内燃料タンクが小型化されたことと武装がオプションとなったことで逆に自重が1300ポンド余りも軽量化されていたというから余程復座化に向いていたのだろう。

世界中で評価された優秀さ
 なおこの機体は初飛行前に既に空軍との間に20機の量産契約を締結しており、機体名もTP-80Cとなることが決定していた。TP-80Cは初飛行から三ヶ月後の6月に機体名をTF-80Cと改め、さらに翌1949年5月にはT-33Aとなった。この機体の完成によって安全なジェット機による飛行訓練が初めて可能となったことで、その量産優先順位は急激に高まることとなった。何より、戦闘機バージョンとの操縦特性の変化がほとんど無かったことも練習機として高く評価されたポイントである。この背景にはTP-80Cの完成直後からロッキードによって全米の空海軍基地を巡回する形で行われたデモツアーも大きく作用していたことは疑いない。
 ともかくT-33Aは海軍向けのTV-2(T-33B)や艦載機として離着艦装置が追加装備されたT2V-1(T-1A)も含めて、1960年代の初めまでに11年に渡って総数5691機が量産されるという練習機の名作となった。なお、これらの数字はアメリカ空海軍及び友好各国への供与機のみであり、カナダと日本でライセンス生産された分は含まれていない。前者、すなわちカナデアCT-133の量産機数は656機。後者の川崎航空機が航空自衛隊向けに量産した機数は210機の合わせて866機に上る。
 こうしてロッキードT-33ファミリーは1950年代から1960年代におけるジェット練習機の最高傑作として西側各国で広く使用された。この時代に戦闘機パイロットへの道を歩んだ人物であれば、何らかの形で搭乗したことがある機体の代表だったと言っても過言ではないだろう。もちろんアフターバーナー無しの単発、火器管制装置も無しというシンプルなデザインゆえに、装備を大幅に進化させた新鋭戦闘機が登場するにつれてその任務は高等練習機から他用途機へと改められ耐用年数が過ぎた個体から適宜退役が進んだものの、その一方で基地間の用務連絡や標的曳航といった雑務をソツなくこなす万能機としても重宝された。

今も残るその雄姿
 ただし1980年代半ばに至り、主としてメインテナンス上の問題から機体を維持することが無意味と判断され残存機の一斉退役が進んだ。なお、その多くは民間に払い下げられた後に一部が民間機として市場に流通したことで、各地のエアショーなどでは美しくレストアされたT-33の往年そのままのフライトを見ることができる。
 日本の航空自衛隊でも長らく運用されたT-33の多くは、退役後に各地の航空基地におけるゲートガードや民間施設などでも多数が保存展示されてされている。その機数、およそ40機。その中で、航空自衛隊浜松基地付属の広報館「エアーパーク」とかがみがはら航空宇宙博物館で展示されている個体は今にも飛び立ちそうな素晴らしいコンディションである。

Back to index