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世界の名機
Boeing Starman PT-13


 

若き天才エンジニア

 第二次世界大戦前後におけるアメリカ陸海軍航空隊を代表する初歩練習機としてその名を知られていたボーイング・ステアマンPT-13/-17、いわゆる「Kaydet(ケイデット)」の原型を世に送り出したステアマン・エアクラフト・コーポレーションは、第一次世界大戦後のアメリカにおける民間航空機メーカー大躍進の時代に誕生し、わずかの間に大メーカーに吸収され消えていった存在である。
 ステアマン・エアクラフト・コーポレーションは1927年9月に創業した。創業者の名はロイド・ステアマン。28才という若輩ながら、過去にはマッティー・レアード(レアード・ソリューションの設計者である)の元でメカニックを務めていた他、二年半前の1925年2月にはウォルター・ビーチ(ビーチクラフトは彼の名前に由来している)やクライド・セスナ(後に軽飛行機の代名詞となるブランドのルーツである)と共に「トラベルエア」の創業メンバーに名を連ねていた一人でもあった。すなわち、いわゆる大戦間の時代における新進気鋭の航空機設計者の一人だったというわけである。
 カンザス州ウイチタにファクトリーを構えたステアマンは、新進メーカーながら優れた設計の練習機や高速郵便機など当時の民間需要に応える新鋭機を次々を送り出していった。そして創業から3年目の1929年には巨大航空機コングロマリットである「UATA(United Aircraft and Transport Corporation)」の一員へと組み込まれることとなるのだが、これは事実上ロイド・ステアマンが経営の第一線から退いたことを意味していた。
 翌1930年、ロイドは所有していた自社株を全て手放して会社を後にする。その後、彼は友人の航空機ビジネスを手伝った後に請われてロッキードの社長に就任することとなるのだが、それはまた別の物語である。

ボーイング社へ
 一方、創業者の手から離れたステアマンでは、1931年に新型初歩練習機のYPT-9を陸軍航空隊に納入した。これはステアマンが手掛けた最初の軍用機でもあった。この頃、アメリカ経済は1929年に起こった大恐慌の影響で大混乱状態にあった。航空機業界は軍用という確かな需要があったものの混乱の影響から逃れることは適わず、経営が破綻したUATAは複数の企業に分割されることとなる。こうして1934年に至り、ステアマンは同じくUATAの一員でもあったボーイングの一部門として新たな道を歩み始めることとなった。
 ロイド・ステアマンは会社を去る前にいくつかの設計案を残していた。既述のYPT-9もその一つであり、他に「Model 70」とネーミングされていたもう一つの練習機が存在していた。ボーイングはこの機体を陸海軍航空隊に新型初歩練習機としてプレゼンテーションしたものの、当初の評価は余り芳しいものでは無かった。そこでボーイングではロイドの部下としてこの機体を知り尽くしていたエンジニアのハロルド・ジップとジャック・クラークに命じて全面的な見直しを命じることとなった。その結果、完成したのが「Model 75」こと、後のPT-13/-17ケイデットだった。

名機ステアマンの誕生
 Model 75は1936年にまず陸軍航空隊の審査をパスし、PT-13として制式採用となった。エンジンは220hpを発生していたライカミングR-680-5星型9気筒。1936lbs(879kg)の自重と2717lbs(1257kg)の最大離陸重量は、同時代の日本で使われていた九五式一型練習機(陸軍航空隊)と九三式中間練習機(海軍航空隊)よりそれぞれ200kg前後軽かったが、エンジン出力を見るとPT-13の220hpに対して九三式も九五式も300hpクラスとかなりパワフルだったこともあり、トータルでの最高速や実用上昇限度などは拮抗していた。
 ただPT-13は性格的に日本で言うところの中間練習機に近い初歩練習機であり、たとえば陸軍の初歩練習機だった九五式三型練習機及び海軍の同クラス機だった三式初歩練習機よりは自重も重くエンジンもパワフルだった。この辺りの要求スペックの違いはそれぞれの国家の搭乗員教育方針の違いに由来しているとしか言えない。ただ海軍の九三式中間練習機などは採用時に「練習機としては高性能に過ぎる」という評価もあったことから見て、同時代のPT-13に対してもまた、従来の練習機の枠にはあてはまらない新時代の高性能初歩練習機という評価がなされていたことは間違いない。

陸軍に採用
 ボーイングは陸軍航空隊に続いて海軍航空隊に対しても強力なプレゼンテーションを行った。その結果、陸軍航空隊における高評価が既に広く伝わっていたこともあり無事採用となり、エンジンその他のスペックを海軍式に改めた「N2S-2」が量産化されることとなった。
 ところが困ったことに1940年になるとライカミング・エンジンの供給不足という問題が生じることとなった。この問題に対するボーイング側の回答は、同じパワーレンジで重量にも大差が無かったコンチネンタルR-670-4の採用だった。R-680の星型9気筒に対してR-670は星型7気筒という違いこそあったものの、機体そのもののトータル性能についてはほとんど差は無かった。このコンチネンタル・エンジンを装備した機体は陸軍名が「PT-17」、海軍名が「N2S-1/-4」として区別されている。加えて陸軍は再びエンジンの供給不足に陥ることを避けるため、エンジンをジェイコブスR-755-7(225hp)星型7気筒に換装した「PT-18」も1941年に制式採用している。


 1941年12月8日、アメリカは対日戦勃発をきっかけに第二次世界大戦に直接参戦を決心した。ここから各地の搭乗員訓練施設にはパイロット候補生が大量に送り込まれることとなり、練習機の需要もまた大幅に増したとあって、PTシリーズの量産工場だったボーイング・ウイチタ・ファクトリーは連日フル操業となった。PTシリーズの量産は戦後の1946年6月まで継続され、その間の総生産機数は1万346機に達した。この間、陸軍航空隊の現場における一般的な呼称はシンプルに「PT」だった。対して海軍航空隊は「N2S」とそのまんまというもの。現代、PTシリーズの代名詞的存在になっているケイデットというネーミングは、カナダ空軍での呼称が後にアメリカに伝わったものと言われている。
 第二次世界大戦後も生産が継続され、しばらくの間は扱いやすい初歩練習機として活躍したPTシリーズではあったものの、時代がジェット全盛となってからは軍用練習機としてその存在意義となると希薄化する一方だった。既に複葉オープンコクピットであることの必然性は消滅していたと言っても過言ではない。

民間航空での人生
 しかしここから「ステアマン・ケイデット」の新たな道が開けることとなった。軍を退役した機体が大量にサープラス市場に流れ、リーズナブルな価格で販売される様になったことで、相当数が民間機登録ナンバーと共に自家用機や農業用機として第二の人生を歩むこととなったのである。なお種や農薬を大量に搭載する必要があったために練習機とは比較にならないペイロードが要求された農業用機向けに対して、ボーイングはよりパワフルなプラット&ホイットニーR-985ワスプジュニア(450hp)をレトロフィットするという改修案を提供している。
 そして時代がさらに下がった1960年代、依然として相当な機数が民間登録と主にアメリカの空にあったステアマン・ケイデットに別の需要が生じることとなる。それはコレクターズアイテムとしてのヒストリック・プレーンというべき評価である。原型の設計は1930年代初め。どこから見ても古臭く、しかしそれだけにプリミティブなヒコーキとしての暖かみに溢れていたケイデットは、各地のエアショーやイベントなどで大人気をはくすることとなったのである。

エアショーの立役者として
 しばらくするとこの人気を背景に全米を舞台に多くのショーチームが誕生することとなる。アクロありウイングウォークあり、その様子はあたかも第一次世界大戦後に大量に民間放出され、いわゆるバーンストーマー達の愛機として空のサーカスにおいて重要な役割を果たしたカーチス・ジェニーにも似ていた。
 現在、ステアマン・ケイデットは全米各地に1000機以上が民間機登録と共に飛行コンディションを維持したままで保存されている。オーナーズ・アソシエーションも組織され、毎年大規模なイベントも開催され多くの観客を集めている。アメリカ人の多くにとって、複葉機といえば「ステアマン・ケイデット」であるとの認識にもはや疑いを挟む余地は無く、その人気は今後も衰えることは無いだろう。
 ちなみに軍用練習機時代、PTシリーズを初めとする初歩練習機には総じて「YellowPeril」というニックネームが奉られていた。和訳すればさしずめ「黄色の危ないヤツ」と言ったところだろうか。これは言うまでもなく当時の練習機は警戒色の意味で機体の一部もしくは全部が黄色に塗られていたことが理由であるのだが、PTシリーズの現オーナーの間では極めて印象が悪く余り使いたがらないとも言われている。